きのせみかの大和撫子な生活

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韓国が「反日」になったわけ

李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日 – 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年- 1960年)。1905年8月にアメリカに渡った李承晩は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経て、プリンストン大学で博士号を取得した。ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と落第寸前の成績だった(Cの下はFで落第)。大学院卒業後の1911年(明治44年)に帰国するが、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(韓国では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した。

1945年8月に第二次世界大戦において日本軍が連合国軍に降伏したことから、朝鮮半島は北はソ連に、南はアメリカによって管理下に置かれることとなった。その2ヵ月後の1945年10月に李承晩はアメリカから帰国し、独立建国運動の中心人物となった。彼は当時すでに70歳であり他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(臨政)の初代大統領であったこと、左派も多く擁していた朝鮮建国準備委員会(建準)からも一時的に支持されていたこと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。しかし、李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には強力な右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に影響を与えている。

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月 – 1956年1月、1959年6月 – 1960年4月に日本と通商断交している。また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

日本に併合される前の李朝朝鮮がまるで「東洋の理想国家」であったかのように、アメリカで宣伝。ハースト系新聞が広めた日本=野蛮国論の一部となり、アメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。韓国内の朝鮮史賛美は、李承晩の捏造から来ている。韓民国成立直後は、日帝時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、公の場で「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者をすべて政治犯として、投獄・拷問・処刑を行った。 大韓民国成立後のたった2年で政治犯として、投獄された者の総数は日帝時代の約30年間の投獄者数を超えた。今の韓国でも、親日論者として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しいのはそのためである。

北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し、半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。負け戦の時は誰よりも早く逃げ出し、勝ち戦の時は誰よりも目立とうとして、先頭に立った。首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつあるときは、避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破させ、一方で自分は安全な場所に急ぐために米軍基地に逃げ込んでいた。仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつあるときは、連軍としての規律を無視して、韓国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、マッカーサー司令官の意図というよりは、李承晩の独断専行が大きい。

在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。

代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。豊富な水産資源の漁場の確保と韓国が自国領と主張する竹島(韓国名:獨島)を取り込むために一方的にとられた措置であった。李承晩ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり、韓国官憲による銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。李承晩ラインの設定は国連海洋法条約制定前であり、排他的経済水域が成立する以前である。またサンフランシスコ条約では竹島への直接言及は無いが、その交渉文書であるラスク書簡においては、竹島は日本領であることが謳われている。李承晩ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。


Wikipedia「李承晩」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9

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終戦後の日本では、GHQによって戦前の日本を全て否定する政策が実行され、また「反日的日本人」に権威・権力を与えて「進歩的文化人」と称し、その後も占領状態を維持する工作が行われました。

日本と同じようにアメリカの管理下に置かれていた韓国でも当然工作は行われたはずで、李承晩氏が選ばれたのは、アメリカで養成され、しかも「反日的」であり、アメリカにとって都合の良い人物であったからと考えられます。(ちなみに李承晩氏は、最後はアメリカに見放されて失脚することとなりました。)

韓国を「反日国家」とすることにより、両国を緊張状態に置く政策はまさしく「分断政策」で、第一次大戦後にイギリスからアメリカへ世界覇権が移ると共に移植された手法です。
しかしその淵源は古く、古代ローマ帝国によって既に分断支配(分割統治)が行われていたことが歴史に見えます。


<関連>
今も続いているGHQによる「日本人洗脳計画」
http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry-1465.html

「分断政策」にご用心!
http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry-1278.html


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Author:紀瀬美香
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